ガラスの鍵
次に紹介するのは、一視点の作品としてはゲームブックよりも有名な、「ガラスの鍵」というミステリ小説。
作者はダシール・ハメット。
彼はハードボイルド小説の始祖と称されており、一連の作品はどれもハードボイルドなミステリである。
本作は、いくつかの出版社から、訳者を変えて出版されている。
僕の手元には2つの訳書がある。
新しい方の光文社古典新訳文庫版と、古い方の早川書房版である。
どちらのバージョンも後書きが充実しており、オススメだ。
特に、古典新訳文庫版の巻末にある、諏訪部氏による解説は、本稿を書く上で大いに参考となった。
操縦不能な主人公
本作の特徴は、主人公のネド・ボーモンが何を考えているのか分からないことである。
「不思議の国のアリス」は、夢の世界の住人達が皆いかれて見えるのに対して、主人公の考えは比較的まともだと分かるような作品であった。
そうと分かるのは、アリスの考えや心情が、文章中に記されているからだ。
だが「ガラスの鍵」はそうではない。
ドアを閉めてバーテンダーが立ち去ると、マドヴィッグが声を張りあげた。「くそっ、なんてつきあいにくい男なんだ、おまえは」
ネド・ボーモンは肩を揺すった。「そうじゃないといった覚えはない」彼は大きなグラスを掲げて、ビールを飲んだ。
マドヴィッグはプレッツェルを粉々にした。「どうしても出て行くのか、ネド?」
「出て行く」(中略)
「きょうの午後、クラブで起こったことのほかにも、なにか物好きなわけがあるのか?」
ダシール・ハメット(1931)、小鷹信光(訳)『ガラスの鍵』(早川書房、1993年)、111-112頁。
ネド・ボーモンは首を振った。「おれに、そういうしゃべり方はするな。誰にも、そんな口はきかせない」
「なんだって、ネド。なにをいったというんだ」
ネド・ボーモンはこたえなかった。
必要に迫られない限り、彼は考えを口にしないのである。口を開いてもろくに建設的なことを言わない。
作中でも「つきあいにくい人物」と評されるネド・ボーモン。
彼の主役っぷりは色々と型破りだ。
まずもって、ネド・ボーモンの職業は、探偵ではなく、賭博師なのである。
作品冒頭でネド・ボーモンは、殺人事件の第一発見者となる。
だが、探偵でもない彼には、事件を解決する動機がない。
そこでネド・ボーモンは、事件を金の取り立てに利用するのである。
ターゲットは、自身の競馬の賞金を持ち逃げした、バーニーという男。
ライバルの賭博師である。
ネド・ボーモンは、友人のコネを使って、事件の特別捜査官に就任する。
そしてバーニーに、殺人の濡れ衣を着せるのだ。
これはつまり、濫用するための職権を顔パスで得る行為。
すさまじい執念。
かつ傍若無人・公私混同である。
事件を解決しない探偵
その後も彼は、事件とは付かず離れず。
ネド・ボーモンの関心事といえばむしろ、彼の友人ポールと、ポール目下の大仕事である選挙戦だ。
ポールという男は、市政を牛耳る実業家。
そして、ギャングの親玉としての顔もある。
街の要職に就く人物の中には、ポールの息のかかった者が多数いる。
ポールとしては、身内の市議会議員を再選させることで、向こう数年の地位を盤石にしたいところである。
同時にポールは、上院議員の娘ジャネットに恋をしている。
議員と懇意にすることで、ジャネットと結婚させてもらえないかとポールは期待している(実は、ジャネットからは嫌われているのだが、そのことには気づいていない)。
ネド・ボーモンとしては、ポールが恋に盲目なのが気がかりだ。
事件が解決に向けて動き出すのは、なんと最終章(10章)になってから。
8章でポールと喧嘩をしたネド・ボーモン。
袂を分かったと言う。
原因は、ジャネットをめぐる痴情のもつれ。
ジャネットは、ネド・ボーモンのことを好きになったのである。
更にはポールが、話の流れで、「殺したのは自分だ」と言い出したことで、事態はややこしくなってくる。
この章に至るまでに色々あり、街の人々は既にポールを疑い始めている。
疑いを晴らさなければ、ポールは終わりである。
ネド・ボーモンは、犯人はポールではないと信じている。
しかし本人は「やった」と言う。
この状況に至ってようやく、ネド・ボーモンが動き出すのである。
…かに思われたが、すぐには真犯人を追わない。
このまま解決すると、ポールが犯人であってもなくても、どちらにせよ選挙では不利になってしまうからである。
そこでネド・ボーモンはあえて、ヤマ場を1日遅らせることにする。
その1日を使って、事件解決後にポールが失脚しないような根回しをするのである(具体的に言うと、敵陣営のボスを間接的に殺害する)。
絶交してなお、ポールに対する義理を通したというわけだ。
幸せでない結末
ポールのために、やれる限りのことを尽くしたネド・ボーモン。しかし本作は、ハッピーエンドとはいかない。
2人の仲は修復することなく、最後に待ち受けるのは、淡々としたお別れである。
事件を解決したその足で、数時間後には街を出ようとするネド・ボーモン。
もともと街を離れる意思は固かったようで、友人への未練は既に無い。
一方のポールは、ご意見番であるネド・ボーモンを失うのは、お辛い様子。
「できれば……オパールは、ひと目おまえに会いたがると思うんだがな」
ダシール・ハメット、同上、330頁。
「あの子とママに、かわりにおれからの別れのあいさつを伝えてもらうことになりそうだ。四時半の汽車に乗る」
マヴィッグは、苦悩でくもる青い目をあげた。「ああ、よくわかったよ、ネド」かすれた声だった。
しかし、ポール意中の相手であるジャネットがネド・ボーモンに付いていくことが分かると、ポールも2人との関係を諦める。
下記が本書の結びである。
ネド・ボーモンがいった。「ジャネットはおれと一緒に街を出る」
ダシール・ハメット、同上、333頁。
マドヴィッグの上下の唇が離れた。彼は呆然とネド ・ボーモンを見つめた。見つめるうちに、顔からまた血の気が失せた。顔から赤味が完全に消えると、 “幸運を” の 一語だけがかろうじて聞きとれるせりふをつぶやき、ぎごちなく踵を返して戸口に近づき、ドアを聞け、開けたドアをそのままにして、おもてに出て行った。
ジャネット・ヘンリーが、ネド・ボーモンに目をやった。彼はドアを凝視していた。
と、開け放たれたドア。
諏訪部氏は、これを文字通りのオープン・エンディングだと表現している。
喜びはなく、残るのは虚しさばかり。
事件を解決したのが、良かったことなのか。
そして、2人のこれからはどうなるのか。
そういったことは、一切語られないのである。
説明のない人物描写
そんなネド・ボーモンの密着ドキュメントこそ、本作の真価といえよう。
本作の叙述形式はよく、「三人称一場面一視点」と評される。
ハードボイルドのジャンルとして後続作品に引き継がれたのは専ら、キザな文体であったり、ノワール的なストーリー展開であるが、ハメットの持ち味といえば、客観的な描写の徹底だ。
主人公の名前は、一貫してフルネームで記載。
そして本作には、一般的な探偵小説に付き物のワトスン役がいない。
カメラ・アイと呼ばれる客観描写は、常にネド・ボーモンを追いかけ、彼の仕草や発言を無機質に映し出す。
彼のいない場面は描かれないし、回想シーンも本作には存在しない。
読者はひたすら、ネド・ボーモンの活躍をカメラ越しに見るような具合である。
ワトスン役がいないとどうなるか。
地の文が、ありのままになる。
といってもこれは、翻訳者のハードボイルド徹底度によって、若干左右される。
折角なので、手元にある2つの訳書を比べてみよう。
比較するのは、ネド・ボーモンが、バーで注文をする場面。
わずか2文であるが、明らかに差が出る。
後発である古典新訳文庫は、コンセプトとして「現代の読者にも読みやすい日本語で」と掲げているシリーズ。
「ガラスの鍵」の翻訳にしても、コンセプトに違わぬ読みやすさである。
それがこちら。
ウェイターが注文を取りにきた。ボーモントはライウィスキーを、ジャックはジンリッキーを頼んだ。
ダシール・ハメット(1931)、池田真紀子(訳)『ガラスの鍵』(光文社、2010年)、67-68頁。
と、特に感想も浮かばない平易な文章だ。
とはいえ、本書はもともと説明が不足気味な作品なのだから、これはこれでいい。
早川書房版だと、こうなる。
給仕がやってきた。ネド・ボーモンは、「ライ」と告げ、ジャックは、「リッキー」といった。
※引用注「リッキー」には、「(ジンにライム・ジュースと炭酸水を加えた飲物)」との注釈がある。
ダシール・ハメット、小鷹信光、上掲、54頁。
「頼んだ」のではなく、「告げた」「いった」。
意味は削ぎ落とされ、発音だけが事実として描写される。
そして、それ以外は何も言わなかったということが暗に示される。
これによって、彼らのぶっきらぼうな振舞いが表現されている。
早川版の訳者である小鷹信光は、ハードボイルド翻訳の大家として有名な人物。
小鷹訳は、極力、原文をそのまま訳し、分かりやすく噛み砕くようなことはしなかった。
ハメットによる原文も、このような読み心地なのではないだろうか。
逸れもので制御不能、打てども響かないように見えるネド・ボーモン。
不思議なのは、ポールと決別したい気持ちがありながら、彼のことを気にかけ続けていることだ。
これはどういった行動原理によるものなのか。
作中には答えが書かれていない。
おそらく、新しい人生を歩み出すのに先駆けての身辺整理だったんじゃないかと僕は思っているが、あまり深追いしないでおく。
もし本作にワトスンがいたらどうなるか。
ワトスンの手記では、開始数行でホームズのヒーロー像を包括的に説明してしまう。
この八年間、事件を通じて友人シャーロック・ホームズの手際を考えてきた。その中には多くの悲劇と少しの喜劇があり、あとの大半は単に変わっただけのものだったが、普通というものはひとつとしてない。なぜなら、どちらかというとホームズは好きだから仕事を受けるのであり、お金を得るためではない。何の変哲もない調査は、かかわりたくないと一蹴してしまう。途方もない事件でなくてはならない。
アーサー・コナン・ドイル(1892)、海野十三(訳)、大久保ゆう(改訳)『まだらのひも』(青空文庫、2008年改訳)、2頁。
ホームズというキャラクターは、ミステリを成立させるためのシステムである。
それで、ある程度は記号的なキャラ造形がなされている。
彼が謎を解く動機は、シンプルに説明できるのである。
なにせ、作家は毎度、面白い事件を創造しようとしているのだから、ホームズが都合良くすんなりと事件に興味を持つのも、自然な流れと言える。
だがネド・ボーモンの行動原理は、語られることがない。
ワトソンのような良き理解者は、ネド・ボーモンにはいないし、友人のポールとも、むしろ縁を切りたがっているような節がある。
彼は孤独なのである。
それでも、彼の中にあるはずの行動原理に従って、ぶっきらぼうにもがく。
なんだか、ループものの作品を見たりすると、思うのだ。
人間、どちらかといえば、やり直しのきかないことの方が、迷うものじゃないかと。
ループするんだったら、その絶望的な運命を打破することは、少なくとも目的として間違っているはずがない。
なんてったって、現にループしているんだから。
実はすべて神様の気まぐれで、意味もなくループしてました、なんてオチは見たことがない。
しかし人生には、悲惨な運命であったり、ままならない現状であったりも、受け入れるべき時がある。
だからこそ人は悩むのだ。
「ガラスの鍵」は、そんな苦々しさを味わわせてくれる作品である。