不思議の国のアリス
まずは、「不思議の国のアリス」を紹介。
言わずと知れた、児童向けファンタジーの代表作である。
ディズニーによるアニメ版が有名だが、原作は1865年の小説。
作者のルイス・キャロルはペンネームで、本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドドソンという。
ドドソンの本業は数学者。
そんな彼のハイレベルな言葉遊びや、ナンセンスなパロディ詩は、時代を超えてガチ批評とゴリ分析の格好の対象とされている。
ところで、本作が一視点と言われて、意外に感じる人もいるかもしれない。
それは、アニメのイメージがあるからだろう。
ディズニーを始めとした映像化作品では、一視点ではないようなアレンジがなされているのである。
機会があれば見比べるのも面白いだろう。
即興噺だったアリス
「アリス」のベースとなったのは、作者が知人の子供とお出かけした際に、即興で作って聞かせた物語である。
話の聞き手だった知人の子供というのが、アリス・リドルという少女。
もちろん、彼女は冒険の主役であるから、言うなれば、聞き手と兼役といったところだ。
このシチュエーションからして、テーブルトークRPGのようなのである。
アリス・リドルは即興話を気に入って、キャロルに、話を本にして残すようお願いした。
それで、手作りの本として文字起こしされたのが、「地下の国のアリス」。
いわば仮タイトルだ。
さらに数年の歳月を経て、大幅な加筆が施され、「不思議の国のアリス」は完成する。
アリスの実況者
その成り立ちゆえか、作中の視点は、常にアリスに寄り添っているのである。
たちまち、あたりは水を打ったように静まりかえりました。アリスは思いました。「今度はなにをしかけてくるかしら! おつむが働くなら、屋根をひきはがすだろうけれど。」
ルイス・キャロル(1865)、河合祥一郎(訳)『不思議の国のアリス+鏡の国のアリス 2冊合本版』(角川書店、2016年)、55-56頁。
上記は、アリスが家の中で巨大化し、部屋にひとりで鮨詰めになったシーン。
アリスが白ウサギとトカゲのビルに攻撃したので、彼らから反撃を受ける。
だがアリスは、家にはまり込んでいるため、身動きが取れない。
外の様子を探ることも不可能である。
このような状態なので、ウサギとビルが外で反撃の準備を進めている様子は、読者にも分からない形で表現がなされる。
一、二分すると、みんなはまた動きまわり始め、ウサギが「とりあえず、手おし車一台分もありゃあいい」と言うのが聞こえました。
ルイス・キャロル、同上、55-56頁。
「手おし車一台分のなに?」アリスは考えました。
このようにアリスは考えるのだが、「手おし車一台分の何か」の正体は、投げつけられて初めて分かる。
ちなみに、ディズニーによるアニメ版は一視点ではないため、上記の場面で、アリスには知り得ない「家の外」の様子が描かれている。
だから、白ウサギとビルが何を用意しているのかが、視聴者には事前に分かる。
本作における「視点」は、アリスの実況をする存在だ。
もちろん、ケーキを食べたって、ふつう背は変わりませんよね。でも、アリスは、とっぴょうしもないことが起こるのがあたりまえだと思うようになっていたので、ありきたりの人生なんてつまらなくてばかばかしいように感じられたのです。
ルイス・キャロル、同上、21-22頁。
不思議の国では、アリスが飲食をするたびに、体のサイズが大きくなったり小さくなったりと変化する。
作者は、作中のアリスとして自身に起こる変化にリアクションするとともに、聞き手である実在のアリスに対して、その理由を説明するのである。
「へんてこりんがどんどこりん!」アリスはさけびました。(あんまりびっくりしたものだから、きちんとした言いかたを忘れてしまったのです。)「今度は、世界一長い望遠鏡みたいにのびてる! あんよさん、さようならぁ!」(だって、足もとを見ると、どんどん足が遠ざかって、ほとんど見えないくらいなのです。)
ルイス・キャロル、同上、21-22頁。
体が伸びているのはアリス自身なのだから、体が伸びることで、何かしらの体感覚を感じるのではないか、と思わなくもない。
だが、その感覚については、不思議と描写されない。
これはもしかすると、聞き手のアリスにとってイメージしやすいように、視覚的な表現が自然と選ばれた結果なのかもしれない。
単に「あんよさん、さようならぁ!」のパンチラインが言いたかっただけなのかもしれないけど。
他にユニークな場面として印象に残ったのは、グリフォンの登場シーン。
姿形を描写するのではなく、地の文で「(みなさんは、グリフォンがどんなものか知らなければ、絵を見てくださいね。)」と、読者を挿絵に誘導するのだ。
アリスに見えているものは、読者にも提示する。
そう意識して書かれているようである。
介入できない不思議の国
反対に、読者を突き放す描写も、本作の特徴だ。
本作における「不思議の国」での冒険は、実はアリスの夢の中での出来事である。
そして夢の中ゆえなのか、アリスは主人公ではあるものの、自分の思考や記憶を、思うようにコントロールすることができないでいるのである。
「それじゃあ、あんたは自分が変わったと、そう思っておるんじゃな?」
「ええ、そうです。」アリスは言いました。「前に覚えていたことが思い出せませんし──十分もしないうちに大きさがころころ変わるんです!」
「なにが思い出せないって?」青虫が言いました。
「えっと、『小さなかわいいハチさん』の暗唱をしようとしたら、ぜんぜん歌詞がちがってしまいました!」アリスはとてもゆううつそうな声で答えました。
ルイス・キャロル、同上、62頁。
と、アリスは普段であればできる歌の暗唱が、できなくなってしまう。
作中で幾度か暗唱にチャレンジをするが、何度やっても、間違った歌詞になってしまう。
その間違った歌詞として登場するのが、本作の目玉とされる「ナンセンス詩」なのである。
言うまでもないことだが、本作はゲームブックではないから、選択肢がない。
だからこそ、アリスと読者の立場が一致しているとも言える。
この場面でのアリスは、自分が歌詞を間違えるであろう自覚がありながら、それでも間違えることしかできないのだ。
本来は歌詞を知っているはずなのに、である。
読者は読者で、選択肢などないのだから、ただただ読み進めるしかない。
アリスも読者も、どんなに理不尽な展開であれ、それに身を任せるしかないという点では同じなのだ。
だが、もしも本作に選択肢があって、アリスの行動を思うように選ぶことができたとしても、作品がより良くなることはないだろう。
この作品の魅力は、不思議の国の不条理を、アリスと共に体験する点にあるからである。
というか、100年以上も昔の本をわざわざゲームブックと比較して、こうした方が良いとかなんとかってのは、言いがかりに近い。
誰もそんなこと気にしてはおらんのだ。