一視点の縛り
綺麗に纏まったところで、あえて、定義の面で一歩踏み込んでみる。
「ゲームブックっぽさ」とは何なのか。
本稿で着目するのは、「デマ」が持つシミュレーション的な性質と対をなす、ゲームブックのロールプレイングな性質である。
それは、一視点による追体験性だ。
一視点というのは、映画でいう長回し(あるいはワンカット)みたいなイメージで、描写に縛りを設ける書き方を指す。
長回しは映像の話なので、リアルタイムという別の性質も伴ってくるが、小説の一視点はそこまで徹底したものじゃない。
単に、主人公の見たこと、聞いたことに限って書く、という縛りである。
「火吹山」をはじめとするFFゲームブック群は、主人公相当の一視点による作品だ。
主人公と読者は、厳密な意味で同一の存在ではないが、ざっくりと言えば分身なのである。
普段そこまで意識しないが、テレビゲームのRPGでも割と当たり前のことではある。
ゲームの主人公は、最初から最後までのイベントを通して経験する。
一視点の作品において、描写されるのは、主人公が出くわした事物だけだ。
そして、主人公が知り得ない情報は、描写されない。
これが主人公視点ということであり、プレイヤーの分身ということである。
普段ゲームを遊ぶ感覚からしても、主人公とプレイヤーが、同じ謎や困難に直面しているというのは、いかにもゲームとして成立している状態である。
逆に、主人公が知っているはずの情報をプレイヤーが知らされないまま動かすことになったら、プレイヤーは戸惑うだろう。
また、主人公の知らない事実を、プレイヤーだけが知らされてしまったら、感情移入が難しくなる。
ゲームをプレイするのと違って、例えばニュース記事を読んでいるような時であれば、情報が一つの視点に絞られている必要性を感じることはない。
要するに、出来事を俯瞰して把握したいコンテンツと、追って体験したいコンテンツがあるというわけだ。
ゲームブック進行の例
ゲームブックは、構造としては分岐しているものの、主人公にとっては、あくまでも唯一の時間軸として、ストーリーが進行するようになっている。
主人公は、同時に2つ以上の場所にいることができない。
当然、別々の場所で起こる出来事を同時に経験することもできない。
例えば、西と東の分かれ道がある場合、ゲームブックの構造としては(①現在地のパラグラフ、②西を選んだ場合のパラグラフ、③東を選んだ場合のパラグラフ)の3つで構成される分岐となる。
…今更な話だけども、パラグラフ(段落)というのは、ちょっとしたゲームブック用語で、ゲームブックの構成単位を指す。
文章のまとまりである点は通常の小説と変わらないが、選択肢の直前までで文章を区切ることと、それぞれのパラグラフに通し番号を振っていることが特徴的だ。
具体的には次のようになる。
①現在地のパラグラフ
現在の状況が描写される。パラグラフの終わりは、次のパラグラフの番号指示になっている。
一
S・ジャクソン、I・リビングストン(1982)、浅羽莢子(訳)『火吹山の魔法使い』(社会思想社、1984年)、26-27頁。
(前略)
暗がりをのぞきこむとぬるぬるした黒っぱい壁とあちこちに水溜まりのある石の床が見える。空気は冷たく湿っている。君はカンテラに火をともして慎重に闇の中に足を踏み入れる。クモの巣が顔をこすり、小さな足の走り去る音が聞こえる。たぶんネズミだろう。君は洞窟に入っていく。数ヤード行くと道がわかれている。西へむかうか(七一へ進め)、東へむかうか(二七八へ)?
なお、「火吹山」をはじめとするゲームブックの多くは、パラグラフ番号「一」からスタートし、最終番号(「火吹山」なら「四〇〇」)がゴールとなっている。
つまりここが、ゲームで最初の選択肢。
ヒントはないので、ここは直感的に選ぶしかない。
②西を選んだ場合のパラグラフ
ここでは一応、正解の選択肢となる。
イベントとしては、進んだ先でゴブリンと居合わせるという内容。
ゴブリンは番兵だがやる気がなく居眠りしている。
このイベントでは、サイコロの出目で判定を行う。
運が良ければ素通りできる。
運が悪いと、ゴブリンとの戦闘になる。
七一
S・ジャクソン、I・リビングストン、同上、62頁。
通路の右側に北へ折れる曲がり角がある。角にある歩哨の持ち場に慎重に近づいてのぞいてみると、ゴブリンに似た奇妙な怪物が革の鎧を着て持ち場で眠りこけている。君はその前を爪先立って通り過ぎようとする。運だめしをせよ。吉と出れば、怪物は目を覚まざず、大いびきをかき続けるだけだ──三〇一へ進め。凶と出れば、君は地面にこぼれている砂利をガリッと踏んづけ、怪物は目をあける──二四八へ進め。
ここはゲームを通して2回目の選択肢であるから、サイコロ判定により自動的にパラグラフを選ぶパターンのチュートリアルを兼ねていると思われる。
③東を選んだ場合のパラグラフ
こちらはハズレの選択肢。この先はどう進んでも行き止まりになり、結局②のパラグラフへと引き返すことになる。
二七八
S・ジャクソン、I・リビングストン、同上、170頁。
通路はまもなくカギのかかった木の扉に突きあたる。耳をあててみるがなにも聞こえない。体当りしてみるか?そうなら一五六へ進め。まわれ右をしてわかれ道にもどる方がよければ九二へ。
先に行こうとすると、最悪の場合、ペナルティで1点のダメージを受ける。
とはいえ、極端に貧弱な勇者でもない限り、大した被害ではない。
②のパラグラフで説明した通り、序盤はチュートリアルであるから、こんな時もあるよと紹介するのが目的だろう。
選択肢の中には、選んだあと戻れるタイプの選択と、そのまま進んでしまうタイプの選択がある。
基本的には、戻れないことが多い。
このために、「火吹山の魔法使い」は「一方通行型ゲームブック」と呼ばれている。
上記の例は、ハズレを選んでも戻れるパターンであるが、正解を選ぶとそのまま進んでしまい、戻ることができない。
読者の視点でいうと、「②」だけ通る場合と、「③→②」の順に通る場合があるわけだ。
正解を選んだ勇者からすると、②のイベントは観測したが、「③→②」の世界線は捨てたことになる。
両方を経験する勇者もいるが、同時ではなく順番に回っていく形になっている。
「デマ」をゲームブックっぽくないと感じるのは、この辺りの違いからである。
「デマ」には、主人公の概念がない。
何人もの登場人物に対して、さまざまなところで起こる出来事が、並列に存在している。
事の発端であるタダムも、主人公ではない。
彼の出番は、序盤の数ヵ所だけなのだ。
その後、情報は当事者の手元を離れて、一人歩きする。
時系列についても、「デマ」のフローはゲームブックのフローと比べて、曖昧である。
線で繋がれた文章の間には当然、先行・後続の関係がある。
だが、並列する情報間の関係は定義されていないのだ。
「デマ」において定義されている軸は、線で繋がっている情報の間にしかない。
すなわち読者は、ある情報が消滅するまでを直列的に読むこともできるし、複数の情報を並列的に読むこともできる。
どちらの分岐を先に読んでも、小説的に壊れることがない。
これらの違いによって、「火吹山」のパラグラフには、単なるフロー以上の意味が生じている。
パラグラフの縦軸は、時間であり、かつ主人公の意識なのである。
失敗を経験した勇者であれば、慎重さを求められる場面では、余計に緊張する。
イベントが同じでも、経緯が違うことで見え方が違ってくるのだ。
主人公と同じ立場で、同じことを聞いて、見て、感じる。
これがすなわち追体験であり、ゲームブックっぽさなのだと僕は思う。
ところで、一視点という概念は、もともと一般小説の話である。
有名な作品も、意識して探せば、それなりにある。
ここからは、2作の例をもって、一視点の作品が醸す読み心地について考えてみる。