「ゲームブックの歴史を追う」連載第1弾であるが、いきなり、一般的な意味でのゲームブックではない本作。
筒井康隆による、40ページほどの短編である。
初出は「SFマガジン/73年2月号」。
もともとは同名のレコードのライナーノーツに載せるために書き下ろされたんだとか。
文庫には2002年の自選短編集にて初収録された。
本作を紹介する理由は、これが僕の知る中で最も古い分岐小説であったから。
なんせ、もしゲームブックを指名手配するとしたら「分岐している小説を見かけたらすぐに110番!」ってなるくらいには、両者はニアリーイコールなもんである。
それで、見かけたので、紹介。
ちなみに、ゲームブックのブーム期というのは、「火吹山の魔法使い」が日本で発売(1984年)されてからの数年間を指すから、「デマ」はその10年前の作ということになる。
ゲームブックの始まりとは
ゲームブックの歴史、特に起源を語るにあたって、必ずぶつかるのは、「ゲームブックとは何か」。
あるいは、「どこからがゲームブックなのか」。
つまり定義の問題だ。
先に言っておくと、「デマ」は、ゲームブックっぽくない分岐小説である。
逆に、ゲームブックっぽい非分岐小説もある。
後ほど、そのような例も紹介する。
そもそもゲームブックは、形式だけでいえば、発明品でもなんでもない代物。
分岐する小説というのは、言ってみれば「フローチャート」の強化版なのだ。
文章をちょっと厚くすれば、それでもう、ゲームブックになる。
というわけで、「デマ」は、世にも珍しいフローチャートな小説である。
ただし、後書きによると、本作の形式は、より古い作を模倣したものらしい。
「これはデマが伝播していく状態を書いた本があったんです。それがこの形式で書いてあったんですね。ですから、その形式を真似してやったわけですね。」とのこと。
フローチャートな小説
本作の書き出しはこちら。
〔前提〕厳重な言論統制が行われていた。国際情勢が一触即発の状態にあったからである。だがこの状況下に於ても、各種の伝達手段によって、さまざまな情報は乱れとんでいた。本報告は、あるひとつの事実から発生した情報が、姿をさまざまに変えて各地に拡がり、派生して行く様を追跡調査したものである。(二〇四六年八月)
筒井康隆、『自選短編集3 パロディ編 日本以外全部沈没』(徳間文庫、2002年)、218-219頁。
このように、「報告」と称して、デマが拡散していく様子をシミュレートするような小説である。
舞台は近未来の地球で、太陽系の各惑星は既に植民地化されている。
続いて提示されるのは、こちらの事実。
〔事実・1〕
筒井康隆、同上、219-221頁
連合政府徴兵担当官(中略)は、マモル・ウラシマ(四十八歳)を訪問、長男サダム・ウラシマ(二十三歳)次男タダム・ウラシマ(二十歳)の思想調査と身体検査を行った。(中略)この徴兵検査が政府の方針で極秘のうちに行われていることなどを話し、他言を慎むよう命じた。
「極秘」との名目で行われた思想調査および身体検査。
これが〔事実・1〕である。
翌日、当事者である次男タダムの弁によって、次のように語られる(つまり情報は即流出している)。
〔情報・1〕
筒井康隆、同上、222-223頁
けったいなインド人と、白人のおっさんが、だしぬけに入ってきよったんや。びっくりしたで。(中略)それから身体検査をしよった。わい、口こじあけられてな。歯、調べよったわ。(中略)あ、これ、ひとに言うたらあかんで。絶対に秘密やねんて。ひとに言うたら死刑やねんて。
…コテコテの関西弁が出てきた時点でもうダメな感じしかしない。
こういうところは筒井康隆らしいノリである。
もちろん「死刑」だなんて言われちゃいない。
真っ赤な嘘である。
〔事実・1〕と〔情報・1〕の間は一本道であり、分岐はないが、ここから先は枝分かれが生じる。
〔情報・1〕に続くのは、〔情報・2〕と〔情報・3〕。
2並列となる。
両側とも、タダムから聞いた内容を他者に伝える「伝言ゲーム」なのだが、話し手それぞれで、重きを置くポイントが異なってくる。
〔情報・2〕のキーワードは「戦争」だ。
タダムから〔情報・1〕を得たタダムの友人は、これをさらに自分の友人に伝え、その友人はさらに別の友人や自分の家族に伝えた。
(中略)〔情報・2〕
筒井康隆、同上、225頁
タダムの兄貴が兵隊に引っ張られたそうだ、どうやら戦争が近づいているらしい。
もう片側の〔情報・3〕では、「身体検査」がキーワード。
…なのだが、こちらは頭を抱える内容である。
話者はマヨ・クレタ夫人という人物。
彼女が、自分の状況に引っ張られて、非常に偏った伝達をするのだ。
タダムから〔情報・1〕を得たマヨ・クレタ夫人は、この日虫歯が痛んだために歯科医院へ行き、待合室にいた数人の女性にこう語った。
〔情報・3〕
筒井康隆、同上、225-226頁
ウラシマさんのお宅にインド人がやってきて、無理やり息子さんたちの口を乱暴にこじあけて、歯を調べて行ったんですって。政府の人なんですって。ずいぶん痛かったそうよ。近く、戦争がどこかであるそうね。喋ったら死刑よ。
後ろに続く〔情報・5〕はもっとひどい。
〔情報・5〕
筒井康隆、同上、227頁
政府からインド人がやってきて、ウラシマの息子さんの歯を乱暴に引っこ抜いて行ったんですってさ。大統領が自分用の入れ歯にするためなのよ。息子さんは歯を抜かれたあげく、死刑になったそうよ。
このように、デマは誇張・湾曲を経て、エスカレートしながら広がる。
そして世間は、起こってもいない戦争の話題で持ち切りになっていく。
結果として、連合政府が太陽系内の各惑星植民地に対して戦争を仕掛ける、というのが本作のオチである。
本作が一般的な小説と違うのは、凝ったレイアウト。
〔情報〕と括られた文章は、どれも四角く枠で囲われ、互いに線で繋がれている。
ビジュアルとしてフローチャートになっているというわけ。
フローは、ページの右から左へ流れる。
だいたいの情報は、最後には行き止まりで、これは「情報消滅」というマスのようになっている。
そして「情報消滅」したそばから、別の新しい〔情報〕が出現、フローに合流する。
このように〔情報〕は連鎖しながら、結末へと向かっていく。
〔情報〕が並行するときは、縦に段が組まれる。これは最大で四段組となって、複数のルートが並列に進行する構造である。
情報の錯綜する様が、レイアウトで表現されているのだ。
小説とゲームブックの線引き
…とまあ、凄いアイデアといったら凄いアイデアだが、それだけと言っちゃそれだけ。
「デマ」は、出オチな小説である。
紹介しておいてなんだが、これをゲームブックの先駆けというのは、流石に厳しい。
では、アナログゲーム界の首領である安田均氏は、本件について何と言っているだろうか(もちろん、「デマ」については何も言っていない)。
安田は、ファイティング・ファンタジーシリーズ1巻「火吹山の魔法使い」の登場を、「ゲームブックの誕生」と評している。
その根拠は、サイコロを使ったシステムがエポックだったから、とのことである。
それぞれのパラグラフの中で、読者は自分の選んだ行為によっては、サイコロをふって、さまざまな結果も出すのである。
安田均、『ゲームブックの楽しみ方』(社会思想社、1990年)、3-4頁。
つまり、本を読み進めながら、同時にさまざまな結果も出していく──ゲームをする本──ゲームブックといわれる作品の誕生である。
ただし、後年(30年後)になって安田は、上記の評が迂闊だったと感じたのか、FFシリーズ復刊に際して、付録の小冊子で次のような但し書きをしている。
パラグラフだけを選択して遊ばれるものは、当時すでに簡単な形で登場していた。〈きみならどうする? 〉シリーズChoose Your Own Adventure(一九七九~)といって、短いストーリーを選択して筋書きを追っていくものだ。
ただ、これだけでは”遊び”とは言えても、ルールがそれなりにあるゲームとはとても思えない。
安田均、『ファイティング・ファンタジーとAFF』(SBクリエイティブ、2021年)、5頁。
このように、単なる分岐小説とゲームブックの間には、感覚的な線引きがある。
ルールの有無による線引きは、ゲームブッカーの間でも意見の分かれるところ。
僕としては、ゲームブックだ分岐小説だと、あまり厳密に区切るべきではないと考える。
どちらのタイプにも名作が存在しているからだ。
例えば、ルパンゲームブックシリーズの18巻「戒厳令のトルネイド」という作品は、ルールらしいルールのない作品である。
実質的に分岐小説なのだが、評価は高い。
ライトノベル「氷菓」の作者である米澤穂信が、「米澤穂信を作った『100冊の物語』」と題して、100の小説を挙げた中に、この作品が入っている。
とまあ、いくつかの但し書きがあるにせよ、結局は、「火吹山の魔法使い」を「最初の作」と称するところに落ち着く。
それはつまり、「火吹山」を手に取ってもらえれば間違いないということだし、一番売れたし、なによりブームの火付け役だから。
まさに金字塔である。
もっと古いのもあるっちゃあるけど、あんまり細かいことを気にしたって、しょうがない。
「火吹山」にならゲームブックを背負わせていいんじゃないか、と。
これが共通認識だろう。たぶん。