ファイティング・ファンタジー(FF)シリーズの14巻。
今回の敵は、闇の魔術師マルボルダス。
前半は砂漠の旅。
後半では、エジプト風の神殿(ヴァトスの神殿)に潜入する。
神殿には、五つの龍の飾りがある。
これが冒険の目的となるアイテムだ。
全てがマルボルダスの手に渡ったら、アランシア大陸は征服されてしまうという。
主人公の使命は、マルボルダスより先に、五つの龍の飾りを見つけ出して、全て破壊することである。(全部破壊しなくても、一つ破壊すれば野望は阻止できるのではないか、というツッコミが方々でなされていたりする)
この作品だが、ネットの評判的には、凡作とされている。あらすじに論理的な破綻があるからだと思われる。
だが僕に言わせれば、イアン・リビングストン著、そして浅羽莢子訳の組み合わせというだけで、一読の価値ありだ。
本作の特色は、主人公が気休めをすること。
普通のRPGでは、薬草や回復魔法を使って、体力を回復する。
体力はHPとして数値化されていて、対応する回復手段で、簡単に回復することができる。
本作にも食料はある。が、それだけでは足りないのだ。
どくろ砂漠の過酷な環境においては、ありとあらゆる要素がダメージとなるからである。
事実、体力減少イベントが頻発する。
主人公はどうするか?
答えは、小ワザで対処である。
面白いのは、その小ワザが、必ずしも体力回復に繋がるわけじゃないってところ。
やるだけやって、それで終わりだったりする。まさに気休め。
でも冒険って、そんなもんだろ、と思う。
実際に冒険者の立場になって、砂漠を旅させられるとなれば、必死になって、何でもやるだろう。
豆知識を駆使して、喉の乾きを癒す場面がある。
午前中もなかばに達すると喉がひどく渇き、水が飲みたくてたまらなくなる。なにかないかと見まわすと、小さな丸いサボテンを思わす、するどい棘におおわれたこんもりとした緑の植物が目にとまる。
剣で植物を切り開いてみたいなら一二〇ヘ
イアン・リビングストン(1985)、浅羽莢子(訳)『恐怖の神殿』(社会思想社、1987年)、64頁。
一二〇
イアン・リビングストン、同上、92頁。
君は植物の上部を断ち割って、中が水でいっぱいなのを見る。棘を注意深くよけながら、冷たい水を手ですくいだし、まもなく元気を回復する。飲みたいだけ飲むとふたたび南下をつづける(三七七へ)。
サボテンから水分補給。
こういったサバイバル術を実践する創作物というのは、案外珍しいのではないか。
取り急ぎ「サボテン 水 ゾロ」で調べてみたところ、ゾロはやっていないようである。
そしてこう、秀逸なのは、結果が画一的でないこと。
というのも、この場面では、正解の選択肢(一二〇)を選んでも、何も起こらないのである。
「まもなく元気を回復する」などと書いてはあるが、そう書いてあるだけ。嘘つくのやめてもらっていいですか?
飲んだら終わり。次の場面へと進むのみである。
サボテンの水を飲むのは良いアイデアだが、極限の状況下において、それだけで体力が回復することはないというわけだ。
では、この機転は無意味なのかというと、そんなこともない。
飲まなかった方のルートでは、体力点を減らされるようになっているのである。
とすると、ある意味これは、ペナルティの回避。
実質的には体力回復。
つまるところ、「薬草を使う」のと、同じ結果だったりする。
だが結果が同じでも、失点回避の方が、この場面にはマッチしていると感じる。
余談だが、他の場面では、飲んではいけないパターンなこともある。
砂漠の気温はじきにあがり、君は早くも自熱した太陽の下で苦しめられる。西のさほど遠くないあたりに木立らしいものが見え、大きな鳥が何羽も上空を旋回している。木々に近づきたいなら一四二へ。南下をつづけたいなら二九へ。
イアン・リビングストン、上掲、64-65頁。
近づくと木々が池を取り巻いているのを発見する。君はオアシスを見つけたのだ。水を飲みたければ三三七へ。飲まずに南下をつづけたければ二〇七へ。
イアン・リビングストン、同上、104頁。
ここで飲むと、即死する。
鳥がもうすこし地面に近かったなら禿鷹だとわかったろう。あらたな犠牲者が毒の泉のかたわらに倒れるのを待って、空で見張りをつづけている。彼らの辛抱強さはまたもや報われたのだ。
イアン・リビングストン、同上、204頁。
ということで、禿鷹の餌食になる。
「彼らの辛抱強さはまたもや報われたのだ」という余計な一言が、絶妙に煽ってきている。
実はこの場面、ここを超えれば前半終了というタイミングである。
そこに、ボス戦を配置するわけでもなく、間の抜けたイベントを設けてしまう。
殺したあとのドヤ感も含めて、なかなかにシュールである。
そういうわけなので、ここは是非、一度引っかかっておくことをお勧めする。
名所みたいなもんである。
「気休め」をもう一つ紹介。
突如として現れた固有名詞の怪物に襲われる場面。

三七七
右足が砂の中に沈みこんだと思うと、するどい痛みとともになにかが脚の肉を引き裂きはじめるのを感じる。砂咬みが君を引き倒そうとすると同時に、君は剣で砂を突き刺す。(中略)長い触手が二本のびて君をつかみ、砂咬みの口にひきずりこもうとする。足の痛みを無視して君は頑丈な触手にめったやたらに斬りつける。
イアン・リビングストン、同上、230頁。
挿絵:Bill Houston
「砂咬み」とはまた、聞いたこともない生物。
湯婆婆にやられたのだろうか。
「すなかみ」の四文字では到底表現しきれていない何かである。
だがこういうとき、ゲームブックなら、大抵は挿絵があるから安心していい。
砂咬みを倒したパラグラフがこちら。
二六六
イアン・リビングストン、同上、171頁。
触手には砂咬みの主要な二本の神経が走っており、それが使えなくなった怪物は恐ろしい口をだらしなくあけ、君は深手を負った脚を引き抜く。体力点四と技術点一を失う。シャツを破いて包帯代わりに巻いたあと、君は脚をひきずりながら南へ向かう(一〇六へ)。
ここで主人公は、シャツを破いて包帯代わりにする。
なかなか気の利いた一文である。
これは、先に紹介したサボテンの場面ともまた異なる。
シャツを巻いたところで、ゲーム的なメリットは全くないのだ。
実質体力回復といったものを含めても、全くの無価値。
純粋に文章上だけの演出なのだ。
このような数値化されない部分は、テレビゲームでは無視されがちなところではないだろうか。
ゲームブックの、ブックとしての良さはこういったところにある。
あらすじに依らない、シチュエーションとディティールの組み合わせによる面白さ。
リビングストンの作品では、それが特に光っているように思う。
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